私が、

他人とコミュニケーションを取るのが巧くもないし好きでもないのは、私が他人に関心を持ったり共感したりすることが巧くもないし好きでもないから、であるような気がした。
つまり、私のオタク的非コミュ的心性は、私が余り他人にかかわりたがらないことに、由来しているのではないだろうか。
もしもこれを私以外の人にも拡張して敷衍できるのなら、オタクとは、他人に余り関心を持てない人、のことになるのではないだろうか。そういう定義は余り聞かないが。
オタクがオタク的な趣味に没頭するのは、それがオタクの所以であるから、ではなく、オタクは他の人に関心を持てないから、それ以外のなんらかの事柄に没頭せざるを得ないせいではないか。
近代以前において殆どの人は、他人に関心を持ち、共感しなければ生きていけなかっただろうから、オタクがすぐれて現代的な問題であることは、それで説明がつくし。オタクは自分勝手に他人にオタク的知識を披露するものとして嫌われているが、オタクが他人に関心を持てない人であるとすれば、オタクにとってのコミュニケーションは、会話相手を知ろうとするものでなく、会話相手に関心がないことから必然的に、オタク的知識の交換にならざるを得ないだろう。
かくの如くであるならば、他人に関心を持てない人は、関心を持たれないその他人から見れば、自分と違った無気味で薄気味悪いものに見えるだろうから、オタクはキモい、ということになるのではないだろうか。
オタクがキモいのは、その本質においてである、ということなのかもしれない。