ちなみに、

『黒い看護婦』も『極悪警部』も、主犯人は自己の欲望をコントロールできなくなって犯罪に堕ちていく、という構図になっているが、それは、犯罪がそういうものだからなのか、著者達がそういう視点から犯罪を選び、語っているからなのか、それとも、読み手側の私にそういう偏見があるから、そう見えるのだろうか。
欲望を持つことが即ち罪である、というような構図になっていないのは、近代資本主義社会の下では、近代的自我は自分をコントロールすべきものであり、また、欲望は消費のためにも必要なものであって、自己のコントロール下にある限りにおいては、欲望が推奨されるものであるからかもしれない。