『頓悟入道要門論』の最後は、

「一失人身万劫不復努力努力須合知爾」となっているが、須らく知るべきのみ、を修辞であるとして除外すると、マハーパリニッバーナスッタンタにおける釈尊の最後の言葉と同趣旨だ、ということに気付いたのでメモ。
これは、釈尊の最後の説法を知っていて、それにあわせてこういう結語にしたのだろうか、それとも偶然の一致で、だとすれば即ち、仏教理論を煮詰めていくとこういう結論になるのだろうか。
(大乗経典の大般涅槃経釈尊の最後の言葉をどう記述しているのかは知らない。また、この語句自体は梵網経からの引用らしいが、梵網経がこれをどこから持ってきたかも知らない。
禅師が阿含経典を重視したとは思えないが、仏教徒として釈尊の最期に興味を持つのは、もっともなことではある、と考えるのは、釈尊を人間として捉える現代人的な発想だろうか。天台の五時八教説の影響下にあったとすると、天台説では、阿含経典は仏陀が最初の方に説いたものだから価値が低く、仏陀が最後に説いたのは法華経だから法華経最強!、といっているのに、釈尊の死ぬ場面が説かれる遊行経が長阿含経に入っているのは、どう考えても都合が悪いような気はするが)