破局

と、それを甘受する者の歴史意識が、歴史的現在を決めるのだとすると、おそらく私にとって、歴史的現在はバブル崩壊から始まる、といえるであろう。
ある人にとっては小泉訪朝からかもしれないし、ベルリンの壁ソ連の崩壊、あるいはアメリカに縁のある人の中には、2001.9.11からという人もいるかもしれないが、北朝鮮は拉致なんかやっていないと思っていたのでもないし、共産主義に共感していた訳でもない私にとっては、やはりバブル崩壊という破局が大きい。
バブル崩壊で何が破局したというのか。
今日冷静に考えれば変なことのように思えるかもしれないが、あの時代、日本の経済が世界一になるのはそう遠くない未来のように思われていたし、21世紀は日本の世紀だ、くらいに、これは私が長谷川慶太郎の読者だったからというのではなくして、多くの人が思っていたのだと思う。1980年代というのは、そういう時代だった。
バブル崩壊というのは、今から振り返って考えてみれば、その幻が幻でしかないことが露呈した現象だった、といえるのではないか。
日本が世界一になるというバラ色の未来が、バブル崩壊によって破局を迎えたのである。
多分、バブル経済というのは、ただの好景気ではなくて、日本が世界一になる前夜祭の無邪気な高揚感であった。
好景気ならばこれからの日本にもいくどとなく訪れるだろうが、あの高揚感は、バブル経済を知らない若い人は、もう味わうことがないのではないか。再びやってくるとしても、幻滅を味わった世代が消え去る4、50年以上は後のことではないだろうか。
話は変わるが、それを考えると、バブルより50年程前の1930年代の日本人にとっても、その時代は日本が世界一になる前夜祭の時代、10年か20年経ったら、日本が世界をリード、もしくはこの場合文字通り支配しているように思えたのではないだろうか。
(そのバブルがいつはじけたかについては、多分議論の余地がある。日本は日中戦争にも負けつつあったのだから。破局は1945.8.15に一遍に来たのではないだろう)
今日的な視点で、日本がアメリカと戦争なんかして勝てる訳がない、それが分からないのは冷静さを欠いた馬鹿ばかりだ、と断罪するのは、バブル当時その幻を見抜けなかった私としては、天に唾する行為であるのかもしれない。
ちなみに、このように歴史的現在が破局によって画期されるのは、現在とは未来を指向するものだからである。1941年の日本人と1946年の日本人が異なる未来を指向したことは、論を待たないであろう(天皇制打破や共産主義革命を目指していた極少数の人にとっては同じだったかもしれないが)。1946年と1986年の日本人も、実際には違う未来を指向していたかもしれないが、1986年の日本人から見て、1946年の日本人が指向する未来は自分が指向するもの(一言でいえば、経済成長か)とそれ程変わっていないと感じられただろう。そして、バブル崩壊を経た2007年の日本人(の内の少なくともある人々)は、もはや経済成長などという未来は指向していないだろう。
1986年の私が実際に経済成長を指向していたかどうかはやや疑問だが、それでも、21世紀は日本の世紀だ、くらいには確かに思っていたし、指向しようがしまいが、私の未来は、当時確実にその辺りにあった。
2007年の私から見て、1986年の私は同じ未来を指向してはおらず、従って、2007年の私と1986年の私は同じ歴史的現在にいるのではない。2007年の私にとって、歴史的現在は、バブル崩壊から始まっているといえる訳である。
そうすると、(今の)私にとって歴史的現在とは、予めバラ色の未来を持ち得ない現在、日常的でささやかな未来に賭けるしかない現在、といえるのだろうか。