『院政 もうひとつの天皇制』

美川圭 著
中公新書
ISBN4-12-101867-2
院政について書かれた歴史概説。
主として、平安後期から鎌倉時代までの院政の政治史的な流れがまとめられた概説書で、説明が政治史中心の表面的なものであって、分かりやすくもないし特別な内容がある訳でもないので、別に良い本だとは思わないが、歴史概説で良ければ多分一通りのまとめではあるのだろう、という本か。
特に薦める程のものではないが、それでも良ければ読んでみても、というもの。
かつてはこうだとされていたがこうだ、という話が割と多くあったり、権門という用語も説明なしに使われているので、中級者向けではあるかもしれない。
しかし、図式的で分かりやすい説明は、細かな歴史の実際に即せばどうかということも多いとはいえ、本書よりももう少しは図式的で分かりやすい説明があるのではないだろうか。先行研究をそれなりにまとめているっぽいので、現状の研究レベルがその程度だ、ということなら、網野史学のありがたみも分かろうというものだが。
本書を余り面白い良い本であるとは私は評価しない。政治史中心の表面的な歴史概説で良ければ、読んでみても、というところだろう。
以下メモ。
藤原道長の頃、摂関は天皇外戚となり、上級公卿も自らの近親者で固めて身内による政治を行ったが、道長の子孫達が同様のことを行うのは無理があった。院政の時代になると、道長の子孫達は、天皇上皇外戚であるかどうかとは無関係に、家格で摂関の位に就ける摂関家となった。
・このようにして分離した王家と摂関家の、成立後まもない不安定な時のそれぞれの家内対立(鳥羽・後白河vs祟徳、忠通vs忠実・頼長)によって、保元の乱が引き起こされた。家内の対立が、宮廷内の暗闘に留まらずに、軍事衝突へと発展した背景には、荘園成立のピークが12世紀中・後半であり、王家や摂関家の成立も荘園制の成立にかかわっていたことがある。
・『古事談』には鳥羽が祟徳を叔父子と呼んでいたという話が載っているが、白河亡き後も長い間鳥羽は祟徳を廃位していないので、当初からそう考えていたことはないだろう。対立が激化する中で、忠通が鳥羽に叔父子説を吹き込んだ可能性がある。
・「治天」という言葉は、後嵯峨院政以降、王家が大覚寺統持明院統に別れたことで、どちらの家長が院政を行っているかを示すために生まれてきた。