スポーツのルールは日本人選手に不利なように変更される、

というのは、よくいわれることだが、その背景には、ルールを変えるという発想がないことがあるのではないだろうか。
日本的思惟では、ルールは所与の前提であって、与えられた枠内で腕を磨き技術を競うのが、日本的スポーツのあり様なのだろう。かくして、技術は芸術にまで高められるが、その芸は与えられた枠内でのみ使えるものだから、前提が変われば、技術は役に立たない陳腐なものに成り下がってしまう。
スポーツのルールなんて所詮は人が作ったものに過ぎないから、ルールは可変であり、与えられた枠内で技術を磨くことと、与えられた枠を修正して技術を不要にすることとは、相等しい。前者が正しくて後者が汚いとする理屈は存在しないと思われる。
自国に不利なルール変更をされないように、スポーツの国際団体に理事等を送り込め、と諸星裕は書いていたが、日本が国際団体に人材を送り込んだところで、ルールを変えるという発想がなかったならば、その人は国際団体において、憲法の変更を拒絶する日本の左翼政党のようなゴリゴリの保守的態度をとって、使えない人材に成り下がるのではないだろうか。
というか、過去にそういう態度を取り続けてきた結果、日本人がスポーツの国際団体の理事になれなくなった、ということはないのだろうか。