『古事記の起源 新しい古代像をもとめて』

工藤隆 著
中公新書
ISBN4-12-101878-8
中国少数民族の事例を元に、無文字時代の神話のあり様を考え、そこから『古事記』を捉えようとした本。
専門性が高いため、かどうか、全体的にやや瑣末な部分が多いが、面白い箇所もあるので、それなりには楽しめる本か。
(方法論的なことが書かれた部分は、瑣末だが、専門的には多分しょうがないのだろう。歌垣について考察している第十章は、要するに、長い時間歌い継いでいく歌垣は歌い手の協調性がないと成り立たないものだから、歌垣における女性の取り合いが政争にまで至る話は、神話伝承として後の発展段階に属するものだろう、ということが書かれたものだが、テーマに即したすっきりしたものでないのは、モデル構築の専門的な部分を含むとはいえ、専門云々は余り関係がなさそうだ)
興味があれば、割と面白い本ではないかと思う。
現代の中国における事例を、古代日本のモデルとして適応して良いのか、という批判はすぐに思い浮かぶが、実際には、必ずしも少数民族の事例がこうだから、という議論ではなく、事例抜きでもそれなりに説得力のある議論がなされていると思う。
(文字に記す前の暗唱段階では、神話は対句や韻を踏んだ繰り返しの多いものだったろう、とか。歌垣の話も『古事記』本文には「闘明(闘い明かして)」とあるから、長時間歌い合ったことは確かである。これらに比べると、豚の話(後述)や死生観の話(古代人には、死者は、いつまでもいとおしく戻ってきて欲しいものではなく、戻ってきて欲しくはないもの、生きる自分とは別の道を歩んで欲しいものだっただろうというもの)は少し微妙か。スサノオの歌にある妻籠みの垣のように、現代中国少数民族の民俗事例をそのまま持ってきている例もある)
この他、記紀神話の前史が、著者が考えている程長くあったのかは私は疑問に思うし、本書でも無視される『三経義疏』、という問題もあるが(最後の与太話は無視するとして。否、そこが結論なのだから無視しちゃいかんのだが。後、細かい話としては、「弘仁私記」が太安麻侶を持ち上げるのは多人長の身びいきだろう、とか、上代特殊仮名遣いの違いを意味の違いに波及させるのはどうか、とか)、全体としてはそれなりに楽しめる本だろう。
専門的な瑣末なものは嫌という人や、方法論的に多分無理という人は別にして、興味がある人には、悪くない本ではなかろうか。
興味があるならば、購読して良い本だと私は思う。
以下メモ。
・『常陸国風土記』によれば、茨城は先住民族を茨で殺したので付けた地名である。
・日本の古代国家は、政治的リアリズムだけではなく、神話・呪術的世界や歌による恋愛文化といった非リアリズム的要素を国家の中枢に入れた。
古事記「記序」には復古精神が濃厚に説かれており、『古事記』は、律令国家が整っていく時代にあってそれに逆らう反動の書であった。
太安万侶は、実務官僚っぽいイメージだけど、そうでもなかったのだろうか)
・昔の中国や、現代中国少数民族の村では、人糞は豚が処理している。日本でも弥生時代には豚がいたらしいが、その後余りいなくなっており、早い時代に人糞を肥料にすることが起こったのではないか。死体から人間にとって良いものが生じるハイヌヴェレ型神話の中でも、日本だけ屎尿から神が生まれたのは、そのためではないだろうか。
・中国ではイノシシ年は普通にブタ年のことである。ベトナムにはウサギがいないので、ウサギ年はネコ年である。
(ちなみに、個人的には対句を使って記紀創世神話を再構成しようとしている第四章が一番面白い所なのだが、とてもメモにまとめようがないのが残念だ)