『ラッセルのパラドクス 世界を読み換える哲学』

三浦俊彦
岩波新書
ISBN4-00-430975-1
ラッセル哲学の解説書。
残念ながら、私には内容は余り理解できなかった。
述語的属性とか確定記述とかを予め知っている人には、面白いのかもしれない。私には分からなかったので、分からないが。
以下、若干のメモ。
・集合を、自分自身を要素に持つ集合と、自分自身を要素に持たない集合とに別けた時、自分自身を要素に持たない集合、の集合、が考えられるが、この集合(自分自身を要素に持たない集合の集合)は、それが自分自身を要素に持つ集合であるとすると、自分自身を要素に持たない集合の集合なのに、自分自信を要素に持つ集合を要素に持つことになっておかしいし、自分自身を要素に持たない集合であるとすると、自分自身を要素に持たない集合の集合なのに、自分自身を要素に持たない集合が一つ要素から外れることになるので、おかしい。(ラッセルのパラドクス)
ラッセルは、こうしたパラドクスを回避するためには、自己言及を禁ずることが道だと考えて、ある集まりが、その全体によってしか定義できない要素を含む場合、その集まりは全体を持たない、という原理を採用した(悪循環原理)。
・しかし、悪循環原理を採用すると、すべての命題は真が偽かのどちらかである、というような命題が、それが全体によってしか定義できないものであるがために、無意味な文になってしまう。
・それを避けるため、ラッセルは、個物をタイプ0、個物の集合をタイプ1、個物の集合の集合をタイプ2、という風に、すべてのものを階層化した。
 タイプtにある集合の集合、は、タイプt+1におけるある集合、だから、自己言及は発生しない。
・この動物は犬である、この犬は吠える、地球は青い、といった文は、この動物、この犬、地球といったタイプtの個体に対して、タイプt+1に位置する、犬の集合、吠えるものの集合、青いものの集合、をそれぞれ持ってきているが、犬は吠える、というような文は、タイプt+1に位置する犬の集合、吠えるものの集合を対比させているので、本来無意味であり、犬は吠える、という文は、論理的には、「いかなるxについても、もしxが犬であるならば、xは吠えるものである」という趣旨を述べている。
(タイプt+2における、吠える動物種の集合、を考えることができるのではないか、という気がするが、それが何故いけないのか、私には分からない)