『検証・山内一豊伝説 「内助の功」と「大出世」の虚実』

渡部淳 著
講談社現代新書
ISBN4-06-149812-6
 山内一豊の伝記。
 割と普通の伝記本で、伝記ものとしてはこんなもの、といった感じの本か。
 少し文句をつけたい部分はあるのだが、結構私の好きなタイプの本ではあるし、所詮は来年の大河ドラマ便乗本にしてはきっちりとできているので、まずまず、こんなものではないかと思う。今本屋に行けば山内一豊関連の本が大量に置いてあるだろうが、多分平均よりも上だし、上から数えて何番めくらいの割と良い出来栄えの本ではないだろうか。
 興味があるのならば、購読しても良いのではないかと思う。
 文句をつけたいというのは、典拠となる史料が何かは割と記してあるのだが(この点が私の好きなタイプという所以なのだが。書かれていないところは、『歴代公紀』(近代に入って編纂された山内家歴代の記録)に拠っているのだろうか?)、その史料がどういうものなのか、という批判は殆どないこと。『藩翰譜』はまだしも、『御四代記』とか書かれても、知らないのでどういう史料なのかさっぱり分からないし、どこまで信用して良いのか、という肝心なことが分からない。
(『旧記』に関しては、江戸時代に記された、とのみ書かれていて、文脈上、後世の史料なので余り信頼できない、というエクスキューズだとは思うが、そもそも山内一豊も夫人も亡くなったのは江戸時代に入ってからだから、江戸時代に記された、というだけでは、本来、史料の説明には殆どなっていない)
 しかし新書ということを考えれば、こんなもので仕方がないといえば仕方がないか。
 きっちりとできているので、購読しても良い本だと思う。

 以下、メモ。
山内一豊は最初、尾張上四郡を支配する織田伊勢守に仕えた。伊勢守は掛川時代や土佐入国後の一豊に寄寓している。
・一豊の夫人の名前は不詳。千代というのも、根拠がはっきりしない。
山内一豊は、堀尾吉晴中村一氏田中吉政らと共に、豊臣秀次の宿老に指名された。ただし宿老といっても、秀吉から領地を与えられ、秀吉家臣のまま秀次に付かされた監督役であり、秀次の失脚に連座するようなことにはならなかった。彼らは揃って転封され、関ヶ原の戦いまで運命を共にする関係が続いた。秀次が近江八幡に所領を与えられた際、一豊は長浜に配され(中村一氏が水口、堀尾吉晴佐和山田中吉政は八幡にあって秀次領内を差配した)、家康の関東移封に伴って秀次が清洲に入ると、一豊は掛川に配されている(駿府中村一氏、浜松に堀尾吉晴、岡崎に田中吉政)。
小山評定において、一豊は掛川城を明け渡す旨の発言をしており、『藩翰譜』はそれを堀尾忠氏の発案だとしているが、この宿老の関係を考えれば、一氏の子、中村一忠、吉晴の子、忠氏が参戦している中で、協議の末、長老格だった一豊が代表して発言したことも考えられる。
・長宗我部時代の土佐の領地高は9万8千石であり、関ヶ原合戦後の一豊の土佐への移封は、掛川5万9千石から、土佐9万8千石への転封だった。
・一豊が新たに城を構えた大高坂山は、最初、河中山と命名されたが、水害に悩まされたので高智山と字を改めた。これが高知の地名の元である。
・一豊没後に出家して見性院と号した夫人は、徳川豊臣の消長が完全には定まらない中、上洛して高台院と交流を持っている。
(と、著者はその働きを評価しているが、家中の者が見性院の上洛に反対したのが、豊臣から徳川への流れを読み切って、豊臣方と接触する必要なし、と判断して反対していたのならば、この動きはアナクロだったということも考えられるのではないだろうか)