『夏王朝 中国文明の現像』

岡村秀典 著
講談社学術文庫
ISBN978-4-06-159829-4
中国夏王朝の伝説と、その時代に属すると思われる遺跡について書かれた本。
大体のところ、夏王朝に関する啓蒙概説書、と考えておけば良い本か。
考古学的な無味な記述もないではないが、一通りまとまっていて、それなりに面白いので、興味があるならば読んでみても良い本ではないだろうか。
概説書というには著者の主張が前面に出ているような気がするが、後は特に述べておくことはない啓蒙概説書。夏王朝に関する啓蒙概説書で良ければ、悪くはない本だと思う。
興味があるならば、購読しても良い本だろう。
以下メモ。
・考古学的には、殷の時代は、出土した甲骨文から殷の都であることが確かな殷墟に代表される文化と、その前の時代である二里岡文化とがあてられる。
・二里岡文化に属する偃師城遺跡は、古典籍の記述から、殷王湯が都をおいた西亳に比定されている。
・この偃師城遺跡からわずか6キロのところに、二里岡文化より前の二里頭文化に属する二里頭遺跡があって、湯によって滅ぼされたとされる夏の都があった場所ではないか、と考えられている。
二里頭遺跡では、一号宮殿址が、壮大な正殿と広い中庭、南大門という形の宮廷を持ち、墓の副葬品として玉製品や銅製の酒器が出土していて、後の中国王朝に引き継がれる確固とした宮廷儀礼の存在したことが伺える。
(宮廷儀礼に瑞玉を用いることは『周礼』に規定があり、また、礼(禮)という字は、元は酒を使う儀礼を意味していた。周代にはじまる、公爵、伯爵等の爵位に、爵(さかずきの総称)という字が使われていることからも、飲酒儀礼の重要性が分かる)
・二里頭文化では青銅器が本格的に使われるようになっているが、青銅は、錫の含有量が多いと硬くなるものの、二里頭期にはまだその技術はなく、実用的な銅製の刃物等は作れなかっただろう。
・二里頭文化は一期から四期に細分されるが、二里頭遺跡では、一号宮殿が作られ、玉製の礼器、銅製の爵(西周時代まで盛行した特殊な形の酒器)が登場した三期が、夏王朝に比肩し得るような王朝の画期と見て良いであろう。二里頭遺跡に先行する、王都と看做し得るような遺跡はまだ見つかっていない。二里頭遺跡で大宮殿が廃絶したのは、四期で、王朝が存続した期間は、大体百年足らず。偃師城遺跡の建設は二里頭四期に遡り、また、二里頭遺跡そのものも二里岡文化まで存続しているので、二里頭文化と二里岡文化の区分が、夏から殷への王朝交替を反映している、というような単純なものではない。
・二里頭文化の範囲は二里頭遺跡を中心とする半径100キロ程の狭い領域に過ぎなかった。二里頭三期には、鏃や戦死したと見られる遺体が急増しており、このことは、王朝が戦争によって成立したのではなく、王朝の成立によって、社会や周辺地域との緊張が高まったことを示しているだろう。
二里頭遺跡からは焼け焦げた獣骨が出土しており、肉を焼いて食べていた。二里岡文化になると焼け焦げた獣骨は急速に減少し、現代の伝統的な中国料理でも、肉を直火焼きにすることはない。二里岡文化ではウシの出土割合が大幅に増えているが、殷の時代、ウシは祭儀における犠牲の他、肩甲骨が卜骨として使用されており、権力者向けの牧場経営が行われるようになったのだと考えられる。