古典っぽい

小林秀雄の警告 近代はなぜ暴走したのか?』
適菜収 著
講談社+α新書
ISBN978-4-06-513733-8
小林秀雄のアンチョコ本。
実際にはアンチョコというより小林秀雄の言葉を借りた著者の思想が書かれているのだろうが、大体アンチョコ本と考えていいと思う。それでよければ、という本か。
合う人には合うだろうし、合わない人はくだらないことが書かれているなとしか思わないだろうから、なんか古典あるあるという感じ。
小林秀雄は古典の位置にある、と積極的に評価しておこう。
ですます調とだである体が混在するのはなんとかならんかとは思うが。
それで良ければ、という本だろう。
小林の思想を一言でいえば、全体論
全体論なので、還元論的な近代や近代科学を批判するのはお手の物ではある。
しかし、全体論だって昨日今日出てきた議論ではないわけで、(近代の)毒を克服する方法は毒に当たるほかない、と言った小林がどこまで近代批判をしたかったかはともかく、全体論が何故近代を克服できなかったのかは問われなければならないだろう。
小林は計算と考えは違うといい、全体論としてはそうなのだろうが、計算と考えが異なる例として将棋を挙げている点からしても、コンピューター将棋が人間を破る時代に全体論万歳とはいえないのではないだろうか。
その上で、領域という問題もある。
小林が言っていることは、近代科学思考は芸術や歴史や政治に入ってくるな、ということだ。著者的には漢ごころも近代科学思考との類比で捉えられている。
美しい花がある、花の美しさという様なものはない、という言説は、芸術分野における全体論の無類の強さを証しているが、社会批判においてもそれは有効なのだろうか。
全体論だから古典も全体を玩味するよりなく、小林は素読を行えと言っているが、教育分野において全体論が有効かどうかは、私にはよく分からない。
顔を見ればその人が分かるというのは、全体論としてはそうなのだろうが、警察官や裁判官がそんなことを言い出したらやべぇやつなわけで、社会批判としては適応する領域を間違っているといえるだろう。
このように、適応する領域を考えなければならない。
さらにいえば、芸術が全体論の牙城でいられるかどうかが、問われてもいいのではないだろうか。

以下メモ。
・少年は実在論を好み、青年は観念論に転じ、老年は神秘主義になる。